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    9.スー・グラフトンが尋ねる

    夕暮れの浜辺。w is for wasted

    ホームレスという言葉が日常語として定着してしばらくになる。初めて耳にしたのは、もう40年ほど前の頃になるだろうか。路上で寝起きしている彼らが目立つようになったその当時から、彼らは乞食や物乞いではなく、しばらくは「路上に寝起きする浮浪者」として区別されていたように思う。路上生活者という言葉もその頃、彼らを定義するために生まれたのだろう。が、英語の「ホームレス」が広く定着した。

    陸橋下の段ボールホーム。

    この頃あまり見かけない段ボール・ホーム。

    私の勤務していたオフィスの本部が新宿にあり、そこへの行き帰りに彼らの「路上ホーム」は毎日目にしていた。
    大きな段ボール箱を展開図に広げ、それで床・壁そして屋根を作る。出入り口もある。京王ホテルそばのオフィスに行くときは、新宿駅西口の地下通路を通るが、そこの西(左)側の通路にそうした段ボール箱ハウスがたくさん作られていた。そこにはいつも尿の匂いが漂っていた。雨露を凌ぐことができるので、かなりの数のホームレスが居住。彼らが寝るすぐそばを足早に通り過ぎながら、小さな暗闇に入って目をつぶれば、そこは彼だけの自由な世界、ということを私は思った。そうしたくなることが、わからないでもなかった。保たれているバランスはいつどこから崩れるかわからない、その危うさを承知しながら、根拠のない楽観に支えられてその頃の私は生きていた。
    その後、彼らの家は強制撤去され、その場所にはいかなる物も構築できないように、太い、先端が丸い高さの異なる「杭」が密に建てられた。やがて浸み込んでいた尿の匂いも消えた。

    段ボールのベッド。

    これは段ボールのベッド。

    つい最近その近くまで出かけた時は、都営新宿線新宿駅の南口から向かった。すると歩道の車道側に、段ボールで壁を作り、屋根として大きな黒い傘を載せている段ボールハウスを2軒見つけた。
    ホームレスと呼び方の変った彼らは、今も健在。社会の一員としての義務・責任・権利から、そうする他に方法がなく、自らの意志で「降りた」人たち。でも、寝る場所は必要、食事も必要。今は彼らはどこに新しいねぐらを見つけ、どう生活しているのだろう、再び行政が駅近の裏通りの、歩道の車道側に何らかの規制措置を施すまでの間。

    シェルターのベッド。

    シェルターでは簡易ベッドに寝る。

    アメリカには堂々と利用できるシェルターがある。W is for Wasted に登場するホームレスは、ルールを守る限り、ベッドで寝てボランティアの作る朝・昼・晩の食事を無料で食べることができる。そうすることに対して何の義務も生じない。何と豊かな国。何と懐の深い、大きい国。

    シェルターではベッドも食事もフリー。

    シェルターで食べられる食事。

    日本にホームレスを保護する法体制はあるか?
    ある。自立できるように支援する法律がある。気力・意気が戻ることを前提とした、経済自立できるようにその人に合った技能を身に着け自立するまで、を支援する法律だ。
    日本にホームレスが利用できるシェルターはあるか。
    ある。数は決して多くないが、ちゃんとある。
    が、そこに身を寄せ安心して生活するうち、ちゃんとしよう、と思えるようになればよいのだが、ちゃんとした仕事に就きたい、と思えない人は予想外に多く、シェルターで支援を受けている人の半数以上になるらしい。
    福祉国家としての抜本的な対策は、社会の中で疲れ切った人たちを受け留め、癒し、立ち上がる気力を取り戻させること、社会に返って人間としての尊厳を取り戻させること。社会的弱者が疎外感を抱かずに済む寛大な社会を実現させること。そうしたゴールはホームレス当事者と社会・行政の双方の努力があってこそ実現する。

    それを全否定したのは、W is for Wasted に登場する肥満の女ホームレス。死んだ老人を含む4人組の一人だ。彼女は社会における生活に消耗し疲弊したから、市民としての義務・責任・権利を放棄したわけではない。グラフトンは彼女に、次のように言わしめる。
    仕事は一度もしたことがない。うちはみんな、そう。ああ、父が一度2週間ほど働いたことがあったっけ。あんなにくたびれる仕事させて、くれた金はスズメの涙、働きに見合わない金額だ、ってさ。こうやって貧乏人は搾取されるんだ、って息まいていたよ。
    そこで彼も彼女も、他の子どもたち全員が福祉のお世話になっている、と言って憚らない。

    おおらかと言うか。これは何か大きな履き違え、と思うか。

    それにしても。
    この女ホームレスにとって、ホームレスとは就職の選択と同義。どのように食べていくか、という手段としての選択。彼女は筋金入り。毎日の生活で彼女には「これが必要」という願望がほとんどない。彼女は家は要らない。仕事も要らない。お洒落な服など、要らない。
    逆に、「それは要らない」という思いは多々あるのだ。例えば、税金を払う、税金の還付手続きをする、決まった時間に起きる、郵便物に目を通す、皿を洗う、ベッドメーキングをする、風呂に入る、など「面倒くさいこと」や「したくないこと」など、「要らないもの」は山とあり、そのほぼすべてが、家を捨て仕事をしないことで、せずに済む。

    早朝のサーフィン。

    若者は早朝からサーフィン。PexelsのJess Loitertonによる写真。

    彼女にはホームレスとして行政から用意される寝食以上に求めるものはない。煙草と酒が必要な時、小金が必要な時、は日本と同じ、繁華街やビーチで空き缶や瓶を拾って然るべき場所で換金する。それ以上は彼女の人生では不要。シンプル、すっきり、身軽。究極の不労所得者である。
    彼女は眠りから覚めたら海岸のお気に入りの場所で時間を過ごす。仲間と煙草と酒を回し飲みしながら、爽やかな海風の中で、時間がゆったりと流れていく様を見ながら、お喋りをしたり、うたた寝をしたりして、空腹を覚えたらシェルターへ戻る。究極の贅沢な時間の使い方をして、(私たちが抱える)ストレスとはほぼ無縁の生活を享受している。達成感などという観念、彼らにとって無縁。

    桟橋の向こうに陽が沈む時間。

    桟橋の向こうに陽が沈む。PexelsのJosh Sorensonによる写真。

    彼女やその仲間がそうした精神的に満足できる生活を、物質的満足を代償にして得ていたとしても、何の義務もなく期間の制限もなく享受することが許されるのか?国民の税金で生活を保障されたら、それに対し、例えば、公園の掃除といった対価を払わなくても、いいのか?
    彼女自身、それでいいのか。Give and Take が標準のこの世の中で、take, take と要求だけすることに引け目を感じたり罪悪感を抱いたりしないのか。命を授かって毎日を生きているからには、「こうありたい」という幸福点があるはずだが、食べて寝そべって酒を飲み時々ダーツなどもする、という毎日、それでいいのか。疑問に思って立ち止まることはないのか。
    アメリカは、おそらくはどこの国よりも複雑な問題を抱える国なのだが、社会は成熟しつつあるのだ。社会的弱者に優しい、弱者であることを許す、懐が極めて深い社会なのだ。グラフトンはW is for Wasted の中に「肥満の女ホームレス」をそっと置いて、究極の事例を示した。そして、私たち読者に問うたのだ。
    あなたはこういうフリー・ライダーをどう思う?

    グラフトンが問う。

    どう思う?PexelsのDanik Prihodkoによる写真。(いめーじです)

    そうなのだ。成熟した社会は、社会そのものが生み出した社会的弱者の責任を取るのだ。すべてが制度で成り立っているこの社会でもしその制度に疲弊して困窮しているのなら、その社会がまずはその困窮を取り除かなくてはならない。再起支援はまた別。その次の話。

    どうしても増える荷物はカートに積む。

    荷物はどうしても増える。雨が降れば濡れないよう、カートにカバー。

    そういう彼女が激しく燃える。老人の死体のそばにあったはずの、彼の一切合切の荷物は、乞食グループがカートごとそっくり掠め取ったことが判明。とんでもないこと。ただの仲間ではない。非常に大切な友人で、彼にはしなくてはならないことがあったのだ。彼の無念は彼女の無念。彼女はアドレナリンを大放出して、それを奪還する。

    そうなのだ。彼女は人生に何も求めないが、生活を共にしていた仲間を大事にした。その心が、彼女が生きる意味だ。福祉にただ乗りしていても、彼女は人間としての尊厳を確かに満たした稀有な個である。誰にも代えがたい、この世界でたった一人、唯一無二、の存在である。お前は対価を支払えないから、飯は食わせない、というような社会は、殺伐とした発展途上の貧しい社会だ。そしてここは、アメリカ。福祉の理念を知る社会。理念がゆっくり浸透している社会。

    グラフトンさん、これが私の辿り着いた結論です。

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