物語Wは佳境に近づきます。発端となった最初の死体は、老探偵ピート。彼はこの事件とどう関係するのでしょう。
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    14.老探偵ピートの不可解

    人気のない夜の公園駐車場。w is for wasted
    ピートとドクターはここで待ち合わせた。

    A is for Alibi からR is for Ricochet までずっと、このAlphabet Series (近頃はKinsey Millhone Mysteries とも称される)は「わたしは」という第一人称で語られる物語だったが、S is for Silence の記事にも書いたように、グラフトンはここで心機一転、作風をガラッと変える(その背景はこちら)。ここからは他の登場人物の第三人称の視点で語られる章が、キンジーの章と章の間に挟まれる。S is for Silence では主人公バイオレットを崇める男たち少女たち、T is for Trespass ではソラナという social psychopath 一人、というように、作品によって三人称の章の人物もその数も変わる。W is for Wasted においても T is for Trespass と同様、老探偵ピート・ウォリンスキー、が一人だけ。
    ちなみに次の作品、 X 、において3人称が使われるのは、冒頭の短いプロローグだけ。あとは第一章から最後まで、シリーズ前半のスタイルである キンジーの「わたしは」で語られる。グラフトンは最後にもう一度だけ、昔のやり方で書きたかったのだ。

    SからYまで7冊は著者の新しいスタイルで書かれる

    この全巻、新スタイルで書かれる。

    キンジーはこの老探偵とは、探偵見習いをしていた探偵社で何回も会っている。使い走りで彼の家に行ったこともある。その時の接触から彼の印象を「少々のズルを厭わない、一貫性に欠ける、金にルーズな探偵」と冒頭でキンジーは回想するが、W is for Wasted の彼の章で描かれる探偵ピートは「少々のズル」どころでは済まない、筋金入りのズルだ。久々の依頼人に涎を垂らさんばかりに食らいつくと、可能性のある調査費項目(宿泊費、旅費、食費、その他諸経費)すべてに細工を施して目一杯金を毟り取ろうとする薄汚い探偵として描かれる。それは目を覆いたくなるほどいじましい行為で、年を取って丸く穏やかになるはずの時、なぜこの老探偵は詐欺師まがいのことをしてまで、ヤクザまがいの脅迫をしてまで、金を欲しがるのか。理解に苦しむばかりだ。

    ピートは金を欲しがった。

    受け取った金を数える。

    しかも。
    卑しさは徹底しているのに、華麗な詐欺師とは程遠い。冷酷非情なヤクザとも程遠い。金が絡むとズル賢いのに、どこか間が抜けている、どこかお人好しである。押しの強さと狡知で依頼人を騙しドクター・リードを脅して、まんまと大金をせしめるものの、そのやり方は目を疑う稚拙さである。その展開はまさしく、茶番劇。それが延々続く。読者に私に不安と不満が募る。

    U is for Undertow でも「茶番劇」と「ドタバタ」が顕著であったことを思い出し、これほど頻出するならば、これもグラフトンのスタイルの一つとして受け入れなくてはならないか、と少し遠慮がちになる。
    でも、それにしても。
    いやいや、こういう可能性だってあるではないか。
    1.これはすでに出来上がっている「グラフトン的スタイル」に安穏と落ち着くことを潔しとせず、老練作家としての矜持、新しいスタイルを模索している部分だ。
    2.もしかしたら、事件の根幹にある深刻さを少しでも緩和するためにバランスを図った、その結果の「軽い」トーンの面白可笑しい馬鹿げた筋書きなのかもしれない。
    3.いや、この時グラフトンはこのレベルの「杜撰な」書き方しかできない重症のスランプに陥り、そうなると、いくら直そうとしても単語や言い回しをアチコチちょこっと換えるだけでは何ら改善されるはずもなく、さすがの編集者もそれ以上のダメ出しができず、彼女の意図した仕上がりには遠いが、そう書いたが最後、身動きの取れない状態に陥った、かなりヤバい事態の露呈なのかもしれない。

    私がこう書かずにいられないのは、この不可解さは U is for Undertow で見られた後、このW is for Wasted ではベーカーズフィールド訪問のくだり全てが概ねこの調子で語られ、そして、この老探偵ピートが死に直面する寸前までの状況を描く合計4章の中のストーリー展開にも、この同じ調子が延々と続くからだ。
    ここまで書いてきて、今の今、思い当たった。これだ❗間違いなく❗

    このぎくしゃくしている咀嚼不十分な部分は、
    4.すでに出来上がっていた 最後の部分に繋ぐために、いささか無理な 辻褄合わせをした部分❗
    なのだ。そうだ、そうだったのだ。
    それなら妥当、すんなり納得。

    グラフトンは要所要所の概要を先に書いていた。恐らくは、気に入っているシーンを。かなりの完成度で。構成の前に、あるシーンがすでに十分に膨らんでいることは大いにありうる。

    著者の至福の執筆の時。

    執筆が飛ぶように進む。

    そういう要(かなめ)になるエピソードの概要を(例えば)白い大きな紙に書き出し、次はこう動き、こう運び、こう膨らみ、ここに繋がる、と並べ(矢印で)結んでいくストーリーの作り方をグラフトンはしたと思う。
    推理小説の場合、どのような犯罪であるか、という大命題がまずあり、それがどのように提示され、どのような謎をはらみ、探偵はどのように解決するか、という起承転結をかなりはっきり頭に置いて書いていかなくては、読むに耐える作品には到底、至らない。グラフトンのストーリーはかなり複雑な構成から成る。それに加えて主人公たちの生活や感情を絡ませるので、複雑さはさらに深まる。筆に任せて書いていく、というわけにはいかない。かなり綿密な計画が頭から必要なのである。
    だが、好きなシーンやエピソードは、つい、書きたくなる。この作業は楽しい。辛い「仕事」が待ち受けている、とは言えど。最終的にそうした「繋ぎ合わせ」は何の不都合も生まないほど自然な出来栄えに落ち着くよう調整されるのだが、そうならないことだって、もちろんある。そうならなかったものの、この作品に限っては、私を読者をやきもきさせた「なぜだ」が結果的に美しい飛翔への助走となる。

    助走、蹴りで飛翔する。

    美しい飛翔。

    「やきもき」をきれいに拭い去って余りある見事なシーンが最後に待っている。ピートが銃弾に倒れ、顔半分を冷たい路面に預け、やがて生き絶えていくシーンだ。
    老探偵ピート最終章のこの部分は秀逸である。この秀逸さを効果的に演出するための、意図して稚拙にこしらえた前半ではない。涙を誘うこの部分は早々と出来上がっていたのだ。が秀逸が過ぎた。だからバランスをうまく取ることが難しかった。

    老探偵が殺害されたのは道端。

    老探偵が殺害された夜の駐車場。PexelsのAhmedによる写真。

     

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