死んだホームレスの老人は、キンジーの父親の従弟。彼が無実であることを子どもたちが信じなかった謎を突き止めようとします。
コメント

    8.ママに金鎚で殴られた

    泣く赤ちゃん。w is for wasted

    突然アパートのドア口にホームレスの青年が現れる。至近距離で交わすやりとりの中で、この青年はもしかしたら知能が低いのでは、とキンジーは訝(いぶか)るがそれは正しい観察だった。彼はまだ少年の頃に母親からball peen hammer (丸頭ハンマー)で殴られた、と後で聞かされる。ひどい傷を負った。

    母親はこれでまだ小さい息子の頭を殴った。

    片方の頭が丸い。

    でも、なぜなのか。なぜ親が子どもに元に戻せないような傷を負わせるのか。なぜその時その暴力が起こったのか。その状況にそうせざるを得ない納得のできる必然があったとしたら、それは何か。私には即座に思いつく答えが一つもない。しかし、親と子が二人だけのその場面に、私は弱者としての親を見る。何をどうすればよいかわからない息が詰まりそうな不幸な状況の中で無力なままただ佇む親の姿を、見る思いがする。その思いは彼らとは無関係な私にも、痛い。

    この少年は、見えない線、越えてはならない線を越える親のもとに生まれてしまった。見えない線、人間が試される線。たとえ荒れに荒れていたとしても、これをしたら相手が傷つく、という理解があるから思い留まる線。子どもができて自分の子どもを産むことで、命の重さを理解できる人間になれるかなれないか、それを分ける線。人間としての条件を満たしているかいないかの判断の基準となる線。その線を越える親の元に生まれたことは、その子にとって不運なこと、としか言いようがない。

    街中で眠るホームレス。

    少年フェリックスは路頭を彷徨った。

    青年フェリックスは、幸いなるかな、自分ではどうしようもないその不運をすでに乗り越えていた。両親から否定されて文字通り路頭に迷ったのだが、まさしくその道端で赤の他人の情けを受ける。感情は彼らが掛ける思いやりで十分に育った。だからこそ、仲間の女の心の痛みを自分の痛みの様に感じ取った。そして彼女が是非とも必要としていることを伝えに、キンジーのところへやって来た。

    大宇宙。

    大宇宙。PexelsのMiriam Espacioによる写真。

    親は子どもにとって進む道を照らす「宇宙ほど大きな存在」であるが、子供に正しくその道を示すとき、その親もまた、その「時」を手探りで歩みながら混沌の中を生きている。生きることとはとても難しいことで、その困難は果てしなく続く。人生が落ち着くのは、少しでも見通しが付いて心持ちが幾分でも穏やかになるのは、ずっとずっと後になってからのことだ。

    修行しながら年季奉公する少年。

    丁稚(でっち)。商家で住み込み「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」。

    昔、武士の子弟は15歳で元服した。一人前の大人としての意識・行動が求められ、本人もそれに応えるべく努力をした。同じことが農村でも商家でも見られる。子どもとして天真爛漫に過ごすことが許される時期は、実は非常に短く、それぞれの社会で独り立ちできるよう、様々な技術や知識の移転が家業の手伝いから始まる。その過程で子どもは大人になる心構えを培っていく。
    務めを規定され心構えを持って生きるのは、何も子供だけではない。親には親としての務めがあり、老人には老人の務めがある。人はみなそれぞれの務めを果たしながら、人生を全うしていく。

    さて、それでは今の子どもは。
    彼らは教科書通り大切に守られ育てられ、自立や責任という意識が希薄なまま、確固とした自我が形成されないまま、体だけが成熟して次代の子どもを産む。ここから、地に足を着けることができない不安定な人間を増やし続ける、という悪循環が始まる。この人たちは危うさを内包している人たちだ。若者のすべてがそうだと言っているわけではない。多くはその多感で多忙な時期に、成長して一人前の大人になるのだ。問題は、そうなれない若者。

    溢れる情報の時代。

    溢れる情報の時代。PexelsのTracy Le Blancによる写真。

    情報過多のこの時代はそうした隙だらけの大人の心に、身の丈に合わない虚像、個人の実情とは大きくかけ離れた虚像、を乱暴に植え付けているのではないだろうか。虚像の選択肢は多々ある。彼らはカタログから好きなものをクリックしてカートへ入れるように、パッと安直に好きなもの良さそうなものに飛びつき、それが自分に足りなかった幸せの姿と勘違いしてその虚像を纏(まと)う。しかし、自分が生かされていない在り方はすぐに破綻。素晴らしいはずの人生が、ぼろぼろと崩れて両の手からこぼれ落ち始める。
    その混乱と不安の最中、近づく子は見たことのない子供、元凶の子、途方もなく重い現実。そこでその子が親の不安のはけ口となる。

    観衆で満杯のサッカー・スタジアム。

    試合が始まる。Tembela Bohleによる写真。

    パンを数個置いただけで二人の幼児を家に残したまま、男とサッカーの応援に行って何日も家を空けた若い女がいた。同棲している男への遠慮なのか、子どもを庇(かば)うどころか自らも自分の子に手を挙げる女もいた。共に暮らしながら、お前なんか本当のお父さんじゃない、と言われその少年の首に両手を伸ばした男もいた。隣りで恐ろしいことが起こっていることに気づいても、隣人は関わり合うことを怖れて何も聞かなかったことにする。
    この人たちを「立派な大人」というか。
    今はもう立派な大人は少なくなり、子どもを卒業できない歳を食った若者がやたらと目立つ。彼らが見ているのは、社会の風潮が規定する「これがよい家庭」とか「これがよい生き方」、多くの人がそうあればよいと求める「理想形」、実体を欠く上面の人生。だから中途半端な大人は「泣きやまない子」という現実に狼狽え、折檻する。泣きながら見上げる子の視線にある信じられないという驚きが子どもからの非難と見て、母は父は情夫はさらに殴る。挙句の果て、その事態を放置して自分が「子ども」に逃げ帰る。

    泣く赤ちゃん。

    泣く赤ちゃん。

    昔の村制度は結局は優れた制度だったのかもしれない。近くに住む隣人同士、血縁関係はなくても濃い関係で結びついたコミュニティでは、構成する家の代々のすべての事情が共有され、隣人から見られているという強い意識のもと、下手なことはしない、できない。それは未だに縷々と受け継がれているが、限界集落の命運と共に消えゆく寸前だ。後に残るのは、隣人を疎ましく思う都会型コミュニケーション。
    東京砂漠は今や「都会砂漠」。全国津々浦々にある。

    浜辺で談笑。

    浜辺で談笑。PexelsのArthur Ogleznevによる写真。

    責任感に乏しい成長しきっていない大人は、それでは、どうすればよいのか。簡単な解決策など一つもない。でも、フェリックスの在り方が一つの道を示唆する。
    それは、仲間。心を掛けてもらいながら、自分も掛けられるようになる、人との関係。ゆっくり築いた信頼関係。つまり、人のことを思うこと。人が考えていることを感じること。そうしながら人と関わっていくこと、交わっていくこと、話し合うこと、共に在ることを喜ぶこと。

    多人数が一緒に食事。

    屋外でみんな一緒に食事。

    だからこそ、グラフトンはW is for Wastedを二組の友人夫婦に献呈した。
    ”友よ永遠なれ。この本はそれを書いた本です。

    W is for Wastedの献呈。

    Friends forever.

    コメント

    タイトルとURLをコピーしました