新しい試みで読みながら記事を書いています。最後まで読み終わったのですが、記事はまだ第8章にあります。
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    6.キンジーつぶやく

    スー・グラフトンの書斎(イメージ)w is for wasted
    スー・グラフトンの書斎(イメージ)。PexelsのVlada Karpovichによる写真。

    情報をインデックス・カードに書き終え、キンジーは車を発進させる。
    ここでプロローグは終わり、そのまま(オート・リペア・ショップへ向かう車中の)第一章に繋がる。非常にスムーズな移動、素晴らしい、お洒落。グラフトンの冴え。

    オート・ショップで洗車をする。

    オート・ショップで洗車。PexelsのTima Miroshnichenkoによる写真。

    と言うのも、プロローグや冒頭の章は通常は事件の予兆・事件の発端がインパクトを盛り込んだ仕様で、読者の心を鷲掴みにするべく提示されるところ。プツンと終わり、その後でゆっくり、シリーズの主人公がいつもの調子・リズムで登場し、解決へ向けたストーリーの始まりとなる。W is for Wastedでもその「つくり」は同じ。
    ただし、他のストーリーとは異なるのが、その二つの部分が巧みに繋げてある点。

    なぜ巧みと私は思うのか。
    キンジーは検死局で遺体を見て、これは知らない人だとはっきり確信するのだが、それ以上のものを感知してそれは衝撃であったのに、そうとは感じていない。しかし意識とならないこだわりが残り、それを解きほぐすために脳が無意識に情報を求める。
    その渇望に似た欲求が、キンジーに考えることを感じることを強いる。それが発進させた車の中から、途中で二、三の作業を済ませながら、老人の名前に辿り着くまで、ずっと続くのである。

    アメリカ全土地図。

    アメリカ地図。州と州都がわかる。

    キンジーは普段から色々なことを考える。例えば、一つの作業がきっかけとなって思い出がまざまざと蘇れば(例えば記事5の「記憶」)、そこにあるディテールを「今の立場」から客観的に俯瞰する。次の動作に移れば、そのことが想起させる思いについて考える。何かが視野に入れば、観察力の鋭いキンジー、そのものについても考える。

    静かな車中における時間は、キンジーの思考が自由に飛び交う場所。
    彼女の思考やキンジー本人の様々な情報は、いわゆる「地の文」で書かれる。「地の文」とは、大雑把に言えば、会話以外の説明の部分。骨組みとなる色々な(例えば登場人物、舞台、事態といった)状況がこの「地の文」で設定され、さらにそうした状況が展開していく様も、幾つかの展開を経た最後の結末も、「地の文」で進めていかれる。「会話」にはできない仕事を「地の文」は担う。普通、「会話」は少な目に抑え、時々の「会話」をきらりと光り輝かせる。そうした標準的な決まり事を超越した前衛小説もある。が、やはり安心して読めるのは、効く「会話」のあるきちんとした「地の文」の小説だ。

    谷に架かる吊り橋。

    村に繋がる吊り橋。PexelsのDarina Belonogovaによる写真。

    しばし休憩。

     

     

     

     

     

     

    そうした例外的な小説をたくさん読んだわけではないが、心に残る作品が、ある。
    丸山健二著の「夢の夜から口笛の朝まで」。この小説の文章は詩のように一文が短い。が、句点はほとんどなく、どんどん改行、状況・叙情描写が何行も延々と続いていく。辞書にはない、著者の必然から生み出された漢字構成の熟語が次から次へと出てくる。でも、漢字の意味だけを見ながら行を進めていくうちに、山里の生活が見え、吊り橋の姿が現れてくる。町から戻る老婆を橋の側でずっと待っているフクロウの健気さに、私は地下鉄の中、誰にも気づかれないように感涙にむせた。この本が証明したのは、小説は形式ではない、ということ。
    漢字が好きな方、辛抱強い方、にお薦めです。美しいのです。

    ふくろう。

    じっと待つ。

     

     

     

    休憩おわり。

     

    S is for Silence以降のストーリーでは、登場人物の昔が描かれ、並行してキンジーの依頼案件解決の顛末が書かれる。「昔の話」は今のキンジーとは直接には関係のないストーリーなので、この「地の文」は少し遠くから著者の目がその人物を見ているものとして書かれる。その目はグラフトンの場合、その対象(登場人物)とそれをそっくり取り囲む環境が一目で見渡せる近距離にある。その距離が短いということは、著者の存在感も強い。ニュートラルに書くが、往々にしてグラフトンが出てくる。ごく微かにグラフトンを感じるような気がする部分もあれば、時に色濃く現れることもある。ところが、キンジーの依頼案件の部分では、あったこと・考えたことなどをキンジーが逐一書いていくので、距離は対象と彼女までの物理的な距離、思考する対象物との距離はごく近いものから無限大まで、と様々である。そして、読者との距離は非常に近い。

    スー・グラフトンの書斎(イメージ)

    彼女の書斎(イメージ)。PexelsのVlada Karpovichによる写真。

    スー・グラフトンは考え得るありとあらゆるスタイルでものが書ける作家である。
    1.特異な独特な文章スタイルを持つ。描写が細かい点については、S is for Silenceですでに書いた。なくても一向に構わない詳細な動作の連続(W is for Wastedでも健在)にはアニメーション作成のコマ送りの効果があり、読者は本文を読みながらその内容を映像として認識している、という内容を書いた。「とにかく細かい:人物描写」
    2.描く対象に接近し、極近からその対象を見るいわゆる映像の「クローズアップ」が巧みである。殺された老探偵が借金で首が回らなくなり、返済催促の電話を避けている彼の描写では、苦笑いをする口元の皺まで見えてくるほど、だ。
    3.前後の色々なバランスを見ながら、色々な試みを行う。普通は避ける長い会話の連続も敢えて使い、会話の中だけで話を進めていくこともある。これはU is for Undertowに顕著に見られた(シェリーと彼女の若いボーイフレンドとの会話)。違和感は多少あるものの、その会話の中で「動くこと」に読者の興味は引き付けられる。
    4.時々大胆な手法を発明する。「最終章は「混沌の極み」?」

    さて、結論です。

    そういうグラフトン、第三人称の「地の文」とキンジーの「私」の「地の文」を書き分けることなんて、お茶の子さいさい。章の番号を書いた時点で、すでにキンジーになりきっている。

    そのキンジーの章の「地の文」は、キンジーが「それからオフィスに戻って」とか、「カバナ大通りに入って海に沿って走ると」とか、ちょっとした行動や作業、また「海の霧から季節が変ろうとしている」天候のこと、などを淡々と描くが、その視覚的情報が 実況中継の様に耳に聞こえる。キンジーが小さく 呟いているように聞こえる。「私は」の章の「地の文」は全てキンジーの五感を経ているので、キンジーの声が聞こえても何の不思議もないのだが。

    その声が語る内容の変化・移ろいは、まさしくキンジーの脳内における思考の進行である。プロローグから第一章最後まで、キンジーの脳内の主要関心部分は死んだ老人のこと。そのことをずっと考えているので、その周辺情報が脳内の関係情報を励起する。また、キンジーの目や耳が外界の刺激を受け取ると、脳内に格納されていた雑多な記憶が浮上してきて、その内容をキンジーの脳は適宜編集しながら、あちらこちらに飛び移りながら、それでいて間断なく、思考を続ける。彼女は思考のすべてを頭の中でしゃべり続ける。車内でも運転に集中しながら、解放された脳内活動が掘り起こす思考をそのまま頭の中でしゃべり続ける。

    シナプスの連結のイメージ。

    脳内エネルギーのイメージ。

    その脳内エネルギーが、呟きとして読者にまで私にまで届いた。

    つまり、グラフトンはキンジーになりきり、その場面に実在し、キンジーとして色々なこと・ものを考え・感じ続け、キンジーの脳の中までを再現させる。

    脱帽です

    幼女が脱帽。

    脱帽です。

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