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    7.事件後日譚

    その後の二人。V is for Vengeance
    その後のノラとダンテ。Pexelsのcottonbroによる写真。

    組織犯罪の首謀者・首領・ドン・ボスであるダンテが逮捕劇の現場から跡形もなく消えたので、万引きから端を緒した警察・FBI合同「組織犯罪撲滅計画」は尻切れトンボの幕切れとなる。

    ダンテが乗った飛行機。

    ダンテは空から逃亡。

    最後の章はAFTERという名の章、普通はEpilogue とされる部分。

    エピローグとは、起・承・転・結で完結したストーリーに補筆してストーリーの余韻を楽しむところ。あくまでも補筆なので、アルファベット・シリーズでも、エピローグはいつも素っ気ない。この「余韻を味わい足りない」という思いは、実は、起承転結の作り方に起因するような気がする。ジェットコースターのようにウワーッと一気に昇る「転」の部分から、ストンと「結」に落ちる。落ちた場所で、ほぼすべてのストーリーがプツンと終わる。余韻は非常に大きい。それがアメリカ式・グラフトン式「転・結」作成手法。

    日本の推理テレビドラマの作り方はかなり異なる。「転」の上昇速度が小さい。その代わりに「結」が長い、そして重い。日本ではこここそが見せ場。「転」では犯人の目星はまだはっきりしないが、刑事や探偵の集中した捜査・調査がピタッと止まり、そこで「転」が終わる。それが「結」に入ると、少なくともアメリカの推理小説・テレビドラマには見られない丁寧な事件の説明が始まる。

    ここで事件全容が説明される。

    崖っぷちで。PexelsのTatianaによる写真。

    多くの場合、崖っぷちや雪原に主要登場人物を呼び出し、そこで犯人の犯行に及ぶまでの心理変化、犯行の巧妙なトリック、潜んでいた驚くべき真実、などがドラマの初めから終わりまでのダイジェスト版に沿って、懇切丁寧に解明される。面白いことに「結」の中に「転」がある。それがこれ ⇒ 刑事もしくは探偵が積み上げていくそうした事実から、犯人が特定され、最後にはその犯人が「もはやこれまで」と逃げ出し、遠巻きに待機していた警官が迅速に確保・手錠、という段取りで終わる。私たちはそうした丁寧さをチトやり過ぎと思いながらも、そういう手法にすっかり毒されているので、日本的手法を取らない欧米の本・ドラマの作り方では、最後の部分でブツンと強制終了されたような不条理な感情、え、これで終わり?、に襲われる。

    雪原で犯人を追い詰める。

    時には雪原で。PexelsのSimon Bergerによる写真。

    ドラマの余韻を楽しむために、もう一度ストーリーを擦(なぞ)る日本式丁寧説明は、寺の鐘の音の少しずつ減衰する響きをじっと聞いて楽しむ、という日本人独特の感性には必須条件かもしれない。でも、もっとスマートに余韻を楽しむ構成にしてもらえませんか。崖っぷちや野原という安直な場面設定も、どうにかしてください。とリクエストします。

    寺の鐘。

    寺の鐘。

    グラフトンはこのエピローグで事件を少し進ませることもしている。ダンテを取り押さえたい悪徳刑事の悪事の限りが録音されているテープ、その公表をダンテから依頼され、キンジーはU is for Undertowで初登場した新聞記者、サットンの姉、にその役を託す。お洒落な構成です。

    それやこれやでこのエピローグは興味深かった。エピローグにだって、スタイルがある。グラフトンはエピローグでもスマート。「ダンテとノラのその後」の出し惜しみたるや、うーんと無念の声をつい漏らしてしまった、見事なプッツン終了。

    その後の二人。

    ノラとダンテのその後。Pexelsのcottonbroによる写真。

    この V is for Vengeance はダンテとノラの「大人の恋の物語」である。
    恋の成就まで、二人にはいろいろなことが起こる。それは全部、恋の成就にとって必要なことで、キンジーが仕事として調べたことは、ダンテの環境・状況から派生した小さな事件、ただの脇のストーリー。キンジーちゃん顔色無し、だけれど。

    長編小説ともなれば、プロット(ストーリーの流れ、筋書き)と共に登場人物の設定が入念に行われる。この部分が双方熟成しない限り、作家は執筆を開始できない。ヘタに書き始めれば、途中の立往生が必至。一度書いたものからきれいに離れることはできないので、何回も書き直しが必要になったり、さらにとんでもない事態に発展することもある。だからこの部分にはたっぷりの時間が費やされるはずだ。

    ノラのイメージ。

    ノラ。Pexelsのcottonbroによる写真。

    思うに、盗品再流通事業の中枢人物を設定するにあたり、グラフトンはハンサムでヤクザな好男子ダンテと彼が一目惚れする高嶺の花ノラ、という構想を立てたが、ダンテとノラの性格付けと恋の展開が当初の予定より(ペンが進んで)ずっと豊かになってしまった結果、恋のストーリーはキンジーの事件簿の一部というよりは、事件簿に「大人の恋の物語」として堂々同居する形になってしまった、のだ。

    前々作の T is for Trespass では極悪人Solana が丹念に描かれるが、これは「ソラナの物語」とはならなかった。悪人へバランスが傾く分には、それだけキンジーの事件解決への期待が高まり、問題にはならない。が、素敵な恋の物語は別物。しかも、キンジーとダンテの接触はごく短い(ダンテはその短い時間の中ですら的確にキンジーを理解して大いに好意を持つ)し、ノラに至ってはキンジーとの接点は皆無。この恋物語はキンジーの調査案件を巡る話の中で、突出してしまうのだ

    軒先の花。

    軒先の花。PexelsのMathias P.R. Redingによる写真。

    「軒先の花」のつもりが「母屋」に溢れるほどになる「大人の恋の物語」でもいい。キンジーの事件簿の中では異例で新鮮ではないか。たくさんあるうち、一つくらいは異例もいい。
    異例となった理由はこの恋のストーリーへのグラフトンの思い入れ。その強さはこの恋の物語に用意された綿密な下支えの複層構造によく見て取れる。読者はこの構造の中にすっぽり填(は)まって、この恋は成るべくして成った、というグラフトンの思惑にまっすぐ導かれる。

    家に溢れるチューリップ。

    家の中に溢れる花。PexelsのYura Forratによる写真。

    その複層とは;

    表層:現時点のダンテとノラの恋の進展。
    中間層:ノラの息子がダンテとノラを繋いでいるという、隠された事実。
    深層:もう一人のキー・マン。

    とこのように、この恋は事件簿の一要素としては書きすぎ・立派すぎ・重すぎ。恋の物語として独立させれば、ハーレー・クィーンより真剣な恋愛小説にはなる、全力投球で書き込めば『アンナ・カレーニナ』に肉薄するかも。
    でも、このままがいい。楽しかった。

    最後に。

    最終章、AFTER。

    最終章、AFTER。

    このエピローグには5月27日という詳細月日が与えられている。
    逮捕劇からおよそ2週間が経った月末の金曜日、オフィスに現れたダンテの秘書から彼の安否が知らされ、キンジーが受けた傷(ダンテがキンジーに顔面強烈パンチ)への見舞金が(たっぷり)支払われ、名実ともにダンテに関連した依頼案件が終了する。その日がこの日5月27日に選ばれたのは、パーティーに出る前にキンジーの顔の傷がほぼ治癒していなくてはならなかった、から。

    5月27日金曜日。翌週月曜日5月30日はメモリアル・デー、戦没者追悼記念日。

    パーティ?そう。U is for Undertow のエピローグですでに実施された・語られた祖母のパーティのこと。この V is for Vengeanceにはその予定は書かれていない、ヒントらしきものも触れられていない。が、キンジーの時間の時系列上では、V is for Vengeance の事件が終了した次の週の月曜日、キンジーは祖母グランド主催のメモリアル・デーのパーティに出席するのだ。長い長い間の再会の拒絶、苦しい逡巡、キンジーの成長、の後でようやく。ヘンリーを伴って。

    主催者の挨拶の列の最後尾、車椅子に座っていた祖母グランドは、キンジーを見つけ、驚いてよろよろと立ち上がる。

    来てくれてありがとう。もう会えないかと思っていたわ。相変わらず綺麗だこと、リタ。
    あら?キンジーはどこなの?

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