U is for Undertow の投稿は終了しました。これから次の V is for Vengeance の準備に入ります。しばらくお待ちください。
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    最終章は「混沌の極み」?

    ジムの前に立つ二人の高校生。U is for Undertow
    高校3年生の二人。ウォルターとジョンのイメージ。

    各章の顔は三つの要素から成り立つ。
    1.まず、通し番号(長い下線の座布団付き)。プロローグとエピローグがあることもある。U is for      Undertow にはエピローグだけ。
    2.通し番号下にその章の視点の主の名前。デボラ3章、ウォーカー4、そしてジョン4の3人。
    3.そしてその下に、月や季節と西暦年。時々、午前・午後や夕方・夜の明記も。

    *もし、この「2行目」がないとき、それは「わたし=キンジー」の章という意味。
    *一行目の章通し番号しかない場合もある。これは、前のキンジーの章の続き、そのまま読む。
    これは、スー・グラフトンと編集者が決めたルールで、説明がなくても理解できる。私たちは章が変るたびにチラとこの情報を見ながら、新しい章に入る。

    第33章。

    最終章、第33章。

    U is for Undertow の文字通りクライマックスの最終章、第33章。その下に、1988年4月21日木曜s日、とある。つまり、上のルールから理解できるのは、ここはキンジーが「わたしは」と語る章である、ということ。ところが違う。これは何だ、という呟きが思わず出るほど、抜本的・根本的に違う。この章の最初の1文は、こう始まる。
    ジョンは庭の中に車を停めると、車から出た。

    間違いではない。この「キンジー=私」の章が、ジョンの行動の描写で始まる。ジョンがどこかへ出かけ、家に戻ってきたところで、てきぱきと荷造りの仕上げを始める。電話をするが、その要件について、ああでもない、こうでもない、とグダグダが延々2ページ強も続く。

    3つの点々で人称・視点を変える。

    三つの点々、見えますか?一番上、U is for Undertow の下。

    と、突然、見落としがちな、小さな点・ドットが薄い印字でその行の中央に三つ。
    これは前後関係から解釈すると、人称・視点の切り換えの合図。こんなの今まで、なかったヨ。ここから走者はキンジーにバトン・タッチ。それにしても唐突だ。
    キンジーは、というと:オフィスへ戻りこれまでの情報を整理する。犯人のおおよその見当は脳内ですでについていたが、整理すると「見当」が「確証」になる。キンジーが動く。

    中央の空白行が再びの人称・視点の変更の印。

    この空白行から、再び人称・視点が変更。

    空白の1行が長い段落に移ると、再び人称・視点が切り替わる。予告なく、今度はウォーカーに。 ウォーカーとジョンが到着したのは、山の中の海の見える場所だ。同時に、ジョンの車を尾行していたキンジーも到着、愛車1970 Mustang Grabber Blueを降りて二人の後を追う。

    二人はああでもないこうでもないのやり取りを(延々3ページも)続け、話は徐々に核心に近づき、ウォーカーが異常を察知して鋭く尋ねる。
    「お前、!!!伏字!!! 、え?」

    ここで突然、ジョンと熱心に話をしている「ウォーカーの三人称」の第33章が「わたし=キンジー」の人称・視点に超高速転換する。

    不満のあまり腕組みをする少女。

    不満です。

    ここまで私は頬を膨らましながら読んできたがここに来て、驚いたの、なんの!
    最初は三つの点・ドットが人称・視点切り換えのサインだった。次は空白の1行を置いて、それとなく人称・視点を変えた。そしてここに至っては、会話の最中、予告なく、唐突に、二つの人称・視点がウォーカーからキンジーに入れ替わる。早業、荒業、新手(あらて)技。

    これはない、ですよ、グラフトンさん。掟(おきて)破りだ。しかもそちらで作った掟も無視。状況はわかる。制限もわかる。でも、ねえ。

    jonの車を尾行する。

    ジョンの車を尾行。

    この珍シーン、迷場面、は次のように対処すれば避けられた。

    対処策1:第33章の下に、1行挿入する。その内容は、Jon、Walker、Kinsey と3人。そうすれば「なんでもあり」が許される。度肝を抜く「見せ場・見せ所・聞かせ所」もそのまま有効。掟も破っていない。

    対処策2:ジョンとウォーカーの「ああでもない、こうでもないはすべて破棄、そもそもジョンもウォーカーも冒頭には登場させず、キンジーが二人に追いついたところで初めて登場。あくまでも、前章に引き続き、キンジーの章にする。だから第33章は年月日を削除して「第33章」だけにする。つまり三つの点・ドットまで全部破棄したところを、この章の始めとする。この記事でいうなら、上の印からはじめる。それからジョンの家に行き、彼がスーツケースを積み終えて発車するのを物陰から見届け、尾行し、山の公園に着き、藪の陰から二人のやり取りを盗み聞きし、
    「お前、!!!伏字!!! え?」
    から、それ以下をそのまま続ける。そうすれば、この度肝を抜く「見せ場・見せ所・聞かせ所」がそのまま使えるではないか。それでいて、掟は破っていない。

    確かに、こういう奇抜さ、この本には必要なのかもしれない。読者にこれは失敗作では、と少しでも思わせるところにこの本の真の問題があり、それは私が最初から感じていた「わかったようでわからないもどかしさ、何か腑に落ちない歯がゆさ」であり、この本を1冊の本として上梓するには、グラフトンにも編集者にも、もう一つ何か強いインパクトが必要と思われた。のではないか。と思う。そうだとすると、この手法はハチャメチャな分、もの凄い効果がある。グラフトンはよくこのような方法を考え付いたものだ、と脱帽。

    帽子を脱いで敬意を表する。

    帽子を脱いで敬意を。

    私はいまだにU is for Undertow の核になる意味をきちんと理解していない。それでも、この本には読むべき、きらきら光る素敵な細部がたくさんあった。踏み込んで考えるべき命題もたくさんあった。現代史のおさらいもできた。何より、グラフトンが私の前に、さあどうぞ、と広げる世界は、いつもながらそうなのだがこの本でも、とても楽しい新しい未知の世界なのだ。

    ああ私にはわからない、と弱音を吐くところだった。最初に得た印象だけで記事を5本ほど、題名のこととか森の家のこととか、を書いて、この本の投稿ははいこれでお終い、とするところだった。そうしなくてよかった。少し時間を置いて4回目の「ゆっくり読み」で、グラフトンが意図したこと、を汲み取ることができるだろうか。それは、Y is for Yesterday の投稿を終えた後の休みの間の宿題に。

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