クリスマスまであと2週間、という金曜日、キンジーはヘンリーとツリー・ショッピングに出かける。吊り下げられた裸電球に浮かび上がる夜のツリー・マーケットは、クリスマスの近づきを告げる風物詩だ。異なった種類の木が放つ香りでマーケット一帯が特別な空間になっている。
東京下町の酉の市、年の市、羽子板市などにも共通するものがある。特別な日が近づいてくる気忙しさの中、長い間受け継がれてきた習慣を私たちも繰り返す。綿々と続く人の営みを受け継いでいくことを私たちはすばらしいことだと思う。受け継いだたくさんのものの重みはずっしり快い。
こうした季節のイベントを物語に挿入することは、ストーリーに膨らみを持たせ、その流れに新しいリズムを加える、深い意味も添える。グラフトンはこの能力に長けた作家だ。でも多用はしない。だから尚、効果的。
S is for Silence では独立記念日の花火がそれ。その夜、近隣のみんながその音を近くに、遠くに、聞いていた。犯人も聞いていた。バイオレットには恐らく聞こえていなかった。夫フォーリーは会場でバイオレットを待ちながら、花火に見とれていた。デイジーは家で音だけ聞きながら眠りについた。この時間の使い方が、すばらしい。
グラフトンが描くキンジーのクリスマスは一味異なる。よく見かけるクリスマスの挿入シーンは、次々到着する家族や友人が繰り広げる賑わいの幸福。グラフトンは敢えてそれは選ばず、キンジーとヘンリー二人だけの静かなクリスマスを描く。
彼女がクリスマスを丁寧に書くのは、この年、1987年、だけではないか?ヘンリーはミシガンの実家に帰省、普段は密な人間関係は避けるキンジーも、誰もいない一人ぽっちの悲哀をビンビン感じたクリスマスも過去にはあった。事件と事件の間にクリスマスが来て、クリスマスへの言及が皆無の年も多々ある。
クリスマスとしてグラフトンがきっちり書きたかったのは、このツリー・マーケットの賑わい、かぐわしい樅の木、そして静かなクリスマス。扱う事件の時間設定、事件の性質、など諸条件が整うタイミングを、グラフトンはこの時までじっと待っていたのだと思う。舞台はすでにT、結局はここが最後の機会となる。
クリスマスの準備は
1. ツリー・マーケットでツリーの吟味、
2. ツリーを居間に立て、
3. その週末、親しい人たちとツリーを飾り付け、ツリーを囲んで、エッグ・ノッグを飲みながら完成したツリーを愛でる、
で終わる。
その後は、暖かい居間を樅の木が仄かな芳香で満たし、クッキーやクリスマスの料理を焼く匂いも漂い、静かなクリスマスの音楽が流れ、ツリーの下にさり気なくプレゼントが増える、平和ではち切れそうな特別な日が続く。
クリスマスを待つこの時期が、クリスマスで一番幸せな時かもしれない。
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