バイオレットはあいつに殺されたんだ、と村人から後ろ指を指された夫フォーリーは現在、教会で下働きをしている。バイオレットの失踪後、完全に孤立したフォーリーにただ一人救いの手を差し伸べたのが、この教会の牧師だった。

村の小さな教会, Jochen Schaft
影のように薄い。それがキンジーが得た彼の第一印象で、話を始めながらキンジーの目は彼の腕の長さ、手首の細さ、両手の大きさ、などを瞬時に捉えていく。ここの描写は細かい。前肢の次は顔。目の色、眼窩の状態、と視覚に訴える特徴を即インプット。そればかりではない。キンジーと視線が合っても交差することを拒む彼の淀んだ眼差し、顔にはっきり刻まれた不幸せの印、目の奥の疲弊感、生気のない声、などキンジーは五感のアンテナが捉える彼の特徴をくまなくキャッチする。
グラフトンのスタイルの顕著な特徴がこの、細かい描写、である。とにかく細かい。とことん細かい。そして、それが何回も繰り返される。
なくても大きく影響しないように思える描写すら、非常に細かい。例えば、「車のエンジンを切った。車から降りて、ドアを閉めた」とか、「門を通り、ドアを開けて、部屋に入り、明かりを点けてから、バッグをカウンターに置いた」というような、大昔のインド映画を思わせる、冗長に過ぎる描写がとても多い。全編に(『アリバイのA』 からずーっと)、たっぷり出てくる。初めは、これって字数稼ぎか?と勘繰りたくなった。
でも違うのでーす。細密動作の連続描写は、いわば「アニメーションのコマ送り」。私たちの視覚に強く訴える。私たちはストーリーを読みながら、いつしか映像を見ている。キンジーの細かい動作をじっと追っている。フォーリーの暗い顔から出る声のトーンにじっと耳を傾ける。描写の細かさにはそういう意味があるのだ。

歩く少年の連続動作、Clker-Free-Vector-Images
さて、冒頭の描写について。
フォーリーのこの細かい描写は、正確な情報の多面的インプットである。描写の多さは情報量の多さである。描写が細かければ細かいほど、捉える面が多ければ多いほど、読者の脳の中で結ばれる像は実物に近づく。たくさんの色味の違う小さな点をキャンバス一面に丹念に置いて、一歩引いたときに鮮明な像として認識される、スーラの点描の絵のような技法だ。

点描の絵、InsaneArtist
キンジーの脳に結ばれたのは、未だにバイオレットを忘れることができずに、不幸を引きずっている一人の男の生きざまだった。
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