バイオレットはいつも欲しいものにまっすぐ、手を伸ばす。
資金はある。計画もできた。そして、計画の最後の詰めも終わった。そう確信できたときに、バイオレットの心は大きな揺り戻しをみる。それが酒場ブルームーンの隅で激しく泣き続けるシーンだ。バイオレットの心の中は怒涛。得るものと失うものを同時に見ながら、不安に慄き、なす術もなく、ただ泣いた。

バーのカウンター。
これは、在る限りの情報を様々な方法ですべて表示し、そこから、好きなものを見て、と受け取る側に託す方法ではない。ある事実を提示した後に、後の章で複数の視点からの新しい情報を後付けする、いわば、上載せ拡大の方法である。そうした情報はとても小さいので、とかく見落としがちだ。見落としても、おおよその流れを見失うことはないのだが、わかっていればずっとよくわかる。でも知らなければ、後の話の収まりがもう一つ悪い。これは、グラフトンがS is for Silenceの読者を煙に巻くテクニックの一つだ。
ただ、グラフトンがこういうテクニックを意識して使ったとは思わない。しっかりした構造が出来上がっていれば、著者の筆は、芸術の神が見守っている中で、自然にすいすいと走る。私が「すいすい」が停滞していると感じたのは、チェットの娘のエピソードのいくつかだけだった。

花いっぱい。
普通の読み方であれば、こうした著者のテクニックに私が気付くことはなかったはずだ。とかく推理小説とは結末を急ぐ。ある瞬間、何か心に響くことに気づいても、先を急ぐばかり、その響くことを追求することはほぼなく、そのまま次の本に移っていく。これは大変残念なことだ、と私はS を読みながらずっと痛感している。この本について記事に書くことを計画してからは、丁寧読み、記事内容のディテール正誤チェック、最後の通読、と初めて読んだ後に3回読んだ。その過程で初めて見えてきた、グラフトンの思惑、感情、執筆中の様子、などはすべて、初めて経験する不思議な世界だ。

S is for Silence
S を推理小説以上のものとして捉えたのは、幾多のテクニックの巧妙な駆使ではなく、著したストーリーの内容の質だった。これは、人間が織りなす人生ドラマ、以外の何ものでもない。それもそのはず。彼女はキンジー・ミルホーンのアルファベット・シリーズを書く前に、様々なジャンルの文章を書いていた。時間と競争するテレビの脚本も書いていた。浅学菲才無知な私は、そうした彼女の過去の作品を何一つ読んでいないが、時期を待って必ず読みたい、読んでグラフトンを知り尽くしたい、と思っている。

びっくり !!
そして最後に。
気づいて唖然・仰天したテクニックがある。それについて。
バイオレットは準備よろしく作られた仮設花道(「著者のひと言」で作られた)を小走りに、スポットライトを浴びながら、登場する。
ここから脇道に入る⇒ そこで読者は、花火を見に行く準備に余念のないバイオレットの姿を見るのだが、この章の視点を与える14歳の少女は冒頭で、それが彼女がバイオレットを見た最後だった、と言い、バイオレットがその後失踪したことを読者に伝える。初っ端に美女を登場させるのは効果的、読者の興味をすぐさまぐいと掴む。読者はすぐにさま、彼女のお出かけ準備の様子の描写から、どこかに伏線が張られていないか、失踪は意図したものか、それとも誰かの手で殺害されたのか、と行間を読もうとする。
それが無駄な試みであることは、先の記事で述べた。探しているもののヒントは何一つ書かれていない。その理由は、この一部始終を見たのが少女で、たとえバイオレットに目に見える葛藤があったとしても、まだ幼い彼女にそれは見えなかったから、グラフトンはそのように書いたから、と私は書いた。
徹底して14歳の少女に見えたはずの描写にとどめるこのテクニック、実は私のただの思い過ごしだったかもしれない。でもバイオレット大泣きのシーンは、意図して書いた。ここにはバイオレットの揺らぐ心情をそのまま描いた。大泣きして揺り戻しを無事に通過すると、バイオレットの心は晴天のように青く澄み、しっかり船出を心待ちしていたような気が、ふとする。だから泣いた翌々日のこのお出かけ準備のシーンに、実は迷いは一切なかった。つまり、グラフトンの巧妙なテクニック云々、ということがすべてパーになる。彼女の超絶テクニックか私の深読みのし過ぎか、そこは、皆さんの解釈でどうぞ。 ここで脇道から出る⇒
グラフトンは冒頭の初っ端に、バイオレットを登場させ、彼女が生きていた最後の半時間を丹念に描く。準備が終わると、彼女はドアを閉める。
大好きなシボレー・ベル・エアという花道に乗り込み、軽やかなエンジン音とともに、希望へ向かって洋々とバイオレットは退場する。

これはブルー、バイオレットが乗ったのはすみれ色のベル・エア。
私が仰天したのは、この流れがはっきり見えたからだ。冒頭で登場・退場の両方を書いてのけるグラフトンに私は唖然とし、しばらくの間煙に巻かれたように動けない。何がどうなってそう思ったのか、忙しく分析を始めたのはそのしばらく後のことだ(倣って私も、S is for Silenceの最後の記事を、「バイオレット退場」、とした)。

バイオレットの花かご。
これはバイオレットを語る本だ。彼女は好き勝手に生き、4人の男と1人の娘を翻弄し、1人の少女に強い影響を残した。バイオレットは好きに生きた。
彼女のような個性は小さなコミュニティにはとうてい収まりきらない。それゆえ生じる不条理を、バイオレットは幼いころから理解していた。その不条理に、許される限界を公然と破ることで挑んできた。そういう挑発的な彼女は誰からも、両親からさえも、疎んじられる。
しかし妊娠して家庭を持っても、そこに平穏が幸福があるわけではない。彼女は子供のまま大人になり、自分の幸せを追い続けるが、時間とともに彼女も成長し、そうした自由を認めないコミュニティの閉塞感にいつか疲れ、ついに小さな鳥籠からの飛翔を夢みる。

小鳥の飛翔
15歳で妊娠、結婚。
16歳で娘を出産。
24歳で家を出る。アメリカ国が独立したことを花火で祝う夜のこと。

花火の夜、Designecologist
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