「第一人称」では描き切れない部分がもたらす問題を、第三者の目を通した「第三人称」を使うことで解決するこの手法は、ざっと見たところ、S 以降 Y まで、すべての事件で使用されている。同じシリーズの後半でスタイルの変更をすることに、グラフトン自身かなりの抵抗を覚えたに違いない。しかし、これまでのスタイルを踏襲すれば、キンジーに得ることのできるのは、時間が経ち過ぎて信憑性が薄らいでいる事実、と複数の人間を経由した信頼性が低い伝聞の情報、だけ(あと、キンジーがその人を見ながら得る、勘や直感、かな?)。これだけでこの事件を解決へ持って行くのは無理と判断したグラフトンは、やむなく急遽方針変更に踏み切るのだ。

この全巻、新スタイルで書かれる
Sの話の構成はそれほど複雑なのだ。みなさんも(オリジナルを)ぼんやり読んでいたのでは、途中で混乱することが必至。が、この複雑な構成にはおいしい「おまけ」もついてくる。みなさんはキンジーの知らない事実を読む。つまり、みなさんは1987年時点における登場人物の若いころやその頃の諸事情を知っているので、時間軸を遡ってリアル・タイムで経験したドラマを思い出しながら、現在の流れを追う、という複眼的な醍醐味を味わう。キンジーよりみなさんの方が事件を深く理解している、と自認できる妙味がある。本当にそうなんデス。

2階建てバス
だから、(オリジナルで読むときは)それが誰にいつ起こったことなのか、本筋とどのように絡むのか、そこら辺のことをしっかり押さえて読みましょう。そうすれば、事件の全容はより立体的に複層的に具体的に、そして、魅力的になる。S is for Silenceのバイオレットは、そして彼女を取り巻く人間の複雑な心理ドラマは、この手法を使わなければ到底描き切れなかった。
バイオレットという子持ちの若く美しい女が、1953年という昔、独立記念日の当日、もうすぐ花火が始まるという夕暮れ、に忽然と姿を消す。

デイジーはここで母を見ていた
その日、母親が出かける準備をする中、そばのベッドに寝そべっていた7歳の娘デイジーは1987年の「現在」すでに41歳、いまだに母親の失踪がトラウマとして残り、彼女の人生はうまくいかない。母の呪縛から解き放たれてしっかり人生を前に進みたいと考え、キンジーに母の行方の調査を依頼する。
かくして、「キンジーの現在」で始まる第二章で、母バイオレットの失踪事件が再「発生」する。
コメント