『R』までは日本語で読んでいたが、Sをオリジナルで読み始めたときに大きな違和感を覚えた。このアルファベット・シリーズを読むのが久しぶりであったからでも、英語で読んだからでもない。それでは何が違和感となったのか。
ずばり、視点の切り換え、である。

「私」
ここで小説で使われる「人称」についてごく簡単に説明(できるかな)を試みる。上↑↑の画像の女性が「私は」と呟く。この「私」は第一人称。そこにバーテンダーが加わる↓↓。彼女は彼に「あなたは」と語りかける。この話しかける相手の「あなた」は第二人称。

私とあなた
「私」と「あなた」が話しているところへ、もう一人の人間が加わる。この人は「私」にとって「彼」、第三人称で表される。「彼」が「彼女」になることもある。つまり、人称とは自分を含めた人達の間の関係を表すものである。よって、「私とあなたと彼」が親しく話を始めれば、この3人は「私たち」という第一人称になる。
小説を書く上での人称は上の説明とは異なり、「視点」のことである。ストーリーは必ず一つの視点で書かれる。見る、聞く、感じる、考える、反応する、行動する、語る、のが誰か、ということである。よって、「わたしの名前はキンジー・ミルホーン。カリフォルニア州でのライセンスを持った私立探偵である。」と始まる『アリバイのA』は「わたし=キンジー」すなわち第一人称で書かれている。小説は第一人称より第三人称で書かれることが多い。それは、第一人称で書くと視界が限定される(「私」がいない空間はあり得ない)から。が、第三人称で書けば、世界は無限だ。あたかも神様がじっと見守っているかのように、「彼」の思考・行動・感情を書き表すことができる。

私とあなたと彼
すると第二人称で書かれた小説もあるの?という質問も出そうだが、私は見たことがない。「あなた」は「私」と向かい合っている人、つまり「私」と切っても切れない深い縁のある人、なので「あなた」の視点でストーリーを構築するには、常に「私」が介在しているため、小説として成立しにくい(のだと思う)。

『アリバイのA』の表紙
アルファベット・シリーズ第1巻の『A』から第18巻の『R』まですべて、物語はキンジーの「一人称」で語られた。『アリバイのA』の出だしの一文が、上で引用した「わたしの名前はキンジー・ミルホーン。カリフォルニア州でのライセンスを持った私立探偵である」。全作品、キンジーの見たこと・聞いたこと・感じたこと・遠い伝聞、で紡がれる世界の中で事件が起こり、その事件が解決する。
ところが、このS is for Silence では事情が異なる。

第一章の設定
画像から明らかなように、S is for Silence の第一章には副題と時間設定が付け加えられる。第一章は、主人公バイオレットが全裸で歩きながらお出かけの準備をしている、遡ること1953年の過去。彼女の失踪直前の様子が、ベビー・シッター、Liza ライザ、が目撃したこととして描かれる。
新しい生活を始めることへの希望と不安、暴力を振るって彼女を思い通りにしようとする夫から自由になることへの喜びと哀しみ、そういう相反する思いが交錯しているはずの、出発の準備のシーンはひたすら淡々と描かれる。後悔、不安、あるいは希望、楽観、いずれも強く出ることはなく、彼女の真意がどこにあるのか、行間を読もうとしても、読者がそれを知る手掛かりはほとんどない。ここから出ていきたいという思いがどれだけ強くても、出発の直前に翻意することだって十分に考えられるのだが、ここにはそれを示すヒントは何もない。
それもそのはず、だ。
なぜなら、グラフトンが書いたのは、すべて14歳の少女が見たこと、つまり花火を見に行くための支度に余念のないバイオレット、だから。たとえ実際には明らかな葛藤のヒントがバイオレットの言動にあったとしても、少女はあまりにも若く、彼女にそれは見えない。そういう高度テクも駆使して(すごいね、グラフトン!初めて見ました)、グラフトンはこのストーリーを謎めいた事件に仕立て上げる。

後で二人で食べてね、と言い残して….
第二章は従来のキンジーの「わたし」に戻るが、要所要所で、時には1章おきに、ベビー・シッターや、その友人、そしてバイオレットと関係する男達、の章が挿入される。挿入される章はすべて1953年のもの。
つまり、S is for Silenceは「1953年のストーリー」と「現在=1987年のストーリー」が2本立てで進行する。しかも主要人物はその両方に登場する(キンジーだけだ、片方にしか出場しないのは)。そして人物と時間が交錯する中で、事件は掘り起こされ解決へと収束していく。
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